「百貨店」の誕生と、三越の「デパートメントストア宣言」
(前回の続き)
17世紀の江戸には全国から武士が集まり、日本最大の消費地となった。
武士たちが集まったことで栄えたのが「呉服店」である。支配階級である武士には、立派な服で「着飾る」ことが必要だった。その結果、「越後屋(後の三越)」をはじめ現代の百貨店につながる呉服店が多く生まれた。
明治維新がおこると、政府は欧米に肩を並べようと躍起になり、極端な「欧米化」政策をとった。
天皇や政府高官たちが断髪、洋服、肉食など、新しいライフスタイルを実践して見せたのである。1872年(明治5年)の新聞には「天皇陛下でさえ牛肉を召し上がるようになった。汝、もろもろの民よ、進んで牛肉を食え」と書かれ、「スキヤキ」が文明開化のシンボルとなった。
上流階級では欧米主義が流行して「米を食べると背が低くなる。頭が悪くなる」という俗説も横行、パン食を礼賛した。こうしたトレンドがピークを迎えたのが、1883年(明治16年)の鹿鳴館時代だった。
一方で、欧米スタイルが浸透したのは上流階級のみに限られ、それが一般庶民にまで普及するには、第二次大戦が終わった後までかかることになる。
江戸時代に武家という「上流階級向け商売」で発展した呉服店も、文明開化のあおりを受けて大きな変革を迫られた。上流階級は「和服」を捨てて「洋服」を着ようとしたわけだから、「和服」を売っていた呉服店にとっては、大きな危機である。